ハーモニーを見て思ったこと『幻の優しい社会』

伊藤計劃アニメ映画化プロジェクトとして、一昨日公開となった『ハーモニー』を見てきました。
これほどまでにエネルギーを感じる作品は久しぶりだったので、ざっくりですが勢いで思ったことをまとめてみました。
 

 

幻の優しい社会

無関係な他人が他人を想う社会。それは豊かで余裕のある世界に思える。
しかし、本来人間とはそれほど優しい生き物であったか?
 
余裕のあるうちは、あるいは表面上は、優しいふりをして馴れ合って、けれども切迫した状況になると、醜いほどに蹴落とし合う。人間がそのような生き物であることに、誰しも薄々気づいているのではないか。最初に感じた優しさは幻想なのだろうと、日頃現代社会の人間関係の中でも、そういうことを感じる瞬間が多々ある。本当の意味で優しくできるのは、せいぜい家族くらいが限界の範囲なのかもしれない。伊藤計劃は、多くの正常な人間がほとんど無自覚に避けている問題に切り込んでいるのだと思った。
 
本作では、豊かになった故の過剰な優しさという問題について、人々が完全に健康であることが成し遂げられた世界を舞台に、強い皮肉を込めて描かれている。人は死を恐れ、あらゆる病気を完全に排除し、極端なまでに健康志向な監視型の社会を作り上げた。WatchMeと呼ばれるナノマシンを体内に埋め込み、常に健康状態を管理・監視される。酒やタバコは過去の嗜好品として、この社会では異物として扱われる。
 
「病気をなくす」というのは、世のため人のためになる行為あるいは技術であり、一般に善とされる。けれども、その行為・技術が当たり前になってしまうと、その当たり前に違和感を覚える者にとっては、他人の生き方を強要されることと同義である。優しさというのは、特に表面上の見せかけの優しさは、それが社会の常識になってしまったとき、たちまち鋭利な刃物となって個人を切りつける。
 
社会の当たり前を当たり前として受け入れてしまえば、楽に生きることができるかもしれない。それが「大人になる」ということなのかもしれない。主人公のトァンは、表面上はエリート(WHO上級監察官)としての顔を持つが、実際には社会に馴染めず、隠れて酒やタバコを嗜む生活を送っていた。それが自分が未熟であるからなのか、それとも社会の方が狂っているのか、ミァハの死から13年経った今も葛藤を抱えていた。悩んではみるものの、ミァハのように現状に抵抗を示すこともできず、それが一層自分が臆病者であるという観念となって彼女の心を圧迫し続けた。
 
そんな中、同時刻に世界中で6582人の人々が一斉に自殺を図る同時多発自殺事件が発生した。
事件の影に見え隠れするミァハ。管理されることを忌み嫌い、世界を憎んでいたはずのミァハが、なぜ調和の取れた社会(ハーモニーの世界)を望むようになったのか。トァンは真実を求めていく。
 
伊藤氏が紡いだ繊細な物語は、優しい(と多くの人間が思っている)社会に対する疑問として、今を生きる全ての人に突きつけられたのだと思うと同時に、この社会に違和感を持つ者への救いにも感じられた。
 

 

 
実は、時間があればネタバレも含めてもう少し詳しい記事も書きたいと思っています。物語の展開について、各キャラクターの心情の移行や、あのラストに至った理由など、自分なりに整理して理屈で詰められればと。
とりあえず今回は雑感ということで。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 

【伊藤計劃】東京アニメセンターで開催中の「Project Itoh」展に行ってきた【明日まで!!】

筆者のプロフィール